沖縄には多くの基地が存在し、今も反対の声が多く聞かれます。その反面、基地内や周辺では雇用が生まれ、生活のために基地と関わり続ける人も多くいます。それでも基地に反対する沖縄県民の理由は何なのでしょうか?
島の青年男性のほとんどが招集された
かつてない地上戦によって多くの犠牲者を出すことになった沖縄戦。そもそも沖縄が戦場となる前から、村には青年男性の姿がどんどん消えていました。
沖縄地上戦に突入するきっかけとなったのは、1944年のサイパン島の陥落でした。これによってそれまでは後方支援の拠点でしかなかった沖縄が本土決戦の防衛ラインとなり、沖縄県民を巻き込む悲惨な地上戦へと突き進んでいくことになります。
とはいえこの時点ですでに3万人もの青年男性が招集されていた沖縄では、働き盛りの男性の姿はすでに消えていました。それにもかかわらず沖縄戦に突入することを決めた日本軍は、陸上兵力を確保するために招集対象となる年齢を17歳から45歳までに拡大させ兵力の確保を図ります。
最終的に沖縄本島で戦闘に加わった日本側の兵力は11万6400名とされていますが、そのうち本州から派遣されたのは、戦闘部隊の5万人と後方部隊の2万人、そして武器の操作が出来る専門兵士が3000人です。この数字から見ても、実際に動員された合計人数には約3万5000人が足りていません。
不足した兵力を補わされることになったのが沖縄県民であり、わずかに村に残る男性たちでした。そのため沖縄地上戦以前に招集された人数も含めると、なんと6万5000人もの島の男性たちが兵士として軍に招集されたことになります。
本当は「戦争の話はしたくない」と考えている人が多い
悲惨な結末を迎えた沖縄戦。県内には当時の状況を後世に伝えるための資料館が設置され、戦争を体験した人が自らの体験を語ってくれる場もあります。その代表的な資料館が、糸満市にある「ひめゆり平和祈念資料館」です。
ひめゆり平和祈念資料館で語り部をつとめているのは、ひめゆり学徒隊に参加し生き残った元学徒隊員です。資料館が開館した1989年からこの資料館では、生き残った元ひめゆり学徒隊の女性たちが語り部として戦争体験を語り続けてきました。しかし戦後70年を過ぎ、元ひめゆり学徒隊の女性たちも高齢化が進み現場で語り続けることが困難になり語り部を引退する人も増えました。
現在、ひめゆり祈念資料館の語り部には戦争を体験していない説明員が生き残った語り部から引き継ぎ、元ひめゆり学徒隊たちの想いを次の世代へと伝えていく活動をはじめています。
でも元ひめゆり学徒隊の方々のように積極的に戦争体験を語ってくれる人は、全体から見ると極わずかです。実際に戦争を体験し生き残った人たちと多く接していると、ほとんどの人が戦争についての話はしたくないと考えているように感じます。
思い出話を聞いているうちに戦争での話がぽつりぽつりと出て来ることはあっても、最後まで話着ることが出来る人はそう多くはいません。ほとんどの人が話の途中で急に言葉に詰まり、目に涙を浮かべそのまま話を辞めてしまいます。
また「なんで今さらあんな悲惨なことを話さなきゃいけない(思い出さなきゃいけない)のか!」と怒りをあらわにする人もいます。多くの子や孫、ひ孫たちに囲まれ穏やかな日々を過ごす人々の心には、未だに深く癒えない戦争の記憶がはっきりと残っているのです。
沖縄の高齢者の約4割が戦争によるPTSDで今も苦しんでいる
戦闘に加わった兵士のPTSDといえば、最近ではイラク戦争の帰還兵の話題が記憶に新しいのではないでしょうか?日本でもテレビのドキュメンタリー番組でこの問題について取り上げられ、戦争や戦闘が人間の心にどれだけ大きなストレスと心の闇を生むのかについて改めて考えさせられた人も多いでしょう。
そんな中、沖縄では戦争を体験した80歳以上の高齢者の約4割が沖縄戦によるPESDで今も苦しんでいるという調査結果があるということは、どれくらいの人が知っているでしょうか?
沖縄戦では、多くの民間人も戦闘に強制的に参加させられました。さらにまだ10代半ばの少年たちは「御郷隊」というゲリラ部隊に所属させられ、女学生たちは学徒隊として野戦病院などに配属させられました。これらの舞台は表向きでは志願が前提でしたが、事実上は強制命令であり、幼い子供たちの意志などは関係なく無理やり参加させられていました。
さらに徹底した軍の教育によって死に対する恐怖や感情を捨てさせられ、人を殺すことにも人が死ぬことにも何の感情もわかない過酷な状況へと追い込み、戦場へと向かわせてきました。
また沖縄戦では一般住民たちも多く犠牲となりました。「捕虜にされるより死を選んだ方が楽だ」という歪んだ思想が蔓延し、避難した洞窟や濠の中で集団自決を図った犠牲者も多くいます。こうした悲惨な沖縄戦を体験し生き残った人々が、戦後70年以上たち高齢者となった今になってもその記憶に苦しんでいます。これが80歳以上の沖縄の高齢者の約4割にあたるというのが、沖縄の今なのです。
基地そのものが沖縄戦の記憶を呼び起こす
沖縄の基地反対運動に関する報道などを見ていると、基地の危険性についてばかり注目されているようにも感じます。でもその一方で、爆撃機から雨のように大量の爆弾が投下されその合間を駆け抜けて生き残った人も沖縄にはいます。こうした体験を持つ沖縄県民にとって、基地は危険であるというだけでなく悲惨な戦争の記憶を思い起こさせるスイッチでもあります。
沖縄で今も続く基地反対運動。戦後70年以上たった今でも基地負担を強いられている沖縄県民にとって基地とは、一言では語りつくせない複雑な感情の源流であることは間違いありません。