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沖縄最古のシーサー【冨盛の石彫大獅子】に会いに行く

八重瀬町にある冨盛の石彫大獅子。のどかな景色の中に一人たたずむそのシーサーは3世紀以上もこの場所でたくさんの景色を見続けています。沖縄県最古のシーサーに会いに行くとそんな歴史も見えてきます。

沖縄最古のシーサーは八重瀬の城跡にいた

冨盛の石彫大獅子

3世紀以上もの間、八重瀬の丘の上から沖縄の風景を見続けてきたという冨盛の石彫大獅子。もちろんこれだけ長い歴史があるシーサーは冨盛の石彫大獅子が最古、つまり沖縄最古のシーサーということになります。でもたどり着くまでには意外と大変です。

冨盛の石彫大獅子

バス通りから矢印の通りに住宅街を進んで行くとこの看板を見つけることが出来ます。でもここから急な上り坂を進んで行かないといけません。道の両サイドはのどかな畑の風景で、目の前に見えるのは緑深い丘です。でもこの丘の頂上こそが、沖縄最古のシーサー・冨盛の石彫大獅子がいる場所です。

上り坂の畑道を進むと右手側に整備された駐車場があります。そこに車を停めると、石造りの階段が見えます。この階段を登ると、まっすぐに前を見据えている冨盛の石彫大獅子の姿が見えてきます。

冨盛の石彫大獅子

沖縄最古のシーサーはよく見かけるシーサーとは雰囲気が少し違う

冨盛の石彫大獅子

冨盛の石彫大獅子は高さ141.2センチメートル、全長175.8センチメートルの石彫のシーサーです。石彫のシーサーというのも珍しいのですが、集落の守り神として作られたシーサーの中で最大のシーサーでもあります。でもこの姿は普段街中でよく見かけるシーサーとはやや印象が違います。

冨盛の石彫大獅子

正面から見てみると沖縄のシーサーというよりは神社で見かける狛犬に近いような感じもします。口を開いていますが、威嚇しているというよりも何となく笑っているように見えます。

ちなみにシーサーがこの場所に作られたのは1689年と言われているので、すでに約3世紀以上もこの地に存在しています。そして冨盛の石彫大獅子が作られた理由は「火除け」です。

石彫大獅子が建てられた冨盛地区一帯は、その昔理由の分からない火災が何件も続いていました。困り果てた村人たちが久米村の偉い風水師に相談したところ、この不審火の理由は火山といわれていた八重瀬岳だといわれます。そして風水師は村の火除けとしてシーサーを作るように村人たちに伝えます。

こうして作られたのが冨盛の石彫大獅子。そのため石彫大獅子が見つめる先には八重瀬岳があるのです。

冨盛の石彫大獅子

悲しい戦争の景色も見てきた石彫大獅子と身体の弾痕

沖縄戦の弾痕

陽の光を受けた石彫大獅子は凛々しさや神々しさを感じます。また穏やかな顔でじっと前を見つめるその姿は、静かでありながら力強さも感じます。でもその体に近づいてみると、悲しい戦争の傷跡がはっきりと見えます。

沖縄戦の弾痕

分かりますか?この無数の穴。これは沖縄戦でできた弾痕です。

昭和20年(1945年)、沖縄本島は壮絶な地上戦が各地で繰り広げられていました。もちろん冨盛の石彫大獅子がある八重瀬岳付近もそのひとつでした。そしてこの年の6月ごろには、この地域一帯が激戦地の最前線となります。

激しい米兵の攻撃から身を守るために日本兵が弾除けとしていたのが冨盛の石彫大獅子。そのため石彫大獅子の体には無数の弾痕が無残に残っているのです。

沖縄の風景を3世紀以上見続けてきたシーサーが伝えること

冨盛の石彫大獅子

冨盛の石彫大獅子は、この場所に建てられてから3世紀以上がたった今も八重瀬岳が見える丘の頂上で静かにこの場所を守り続けています。

石彫大獅子の目から見る景色はこれから何十年もたてば変わってしまうかもしれません。でも石彫大獅子はこれからも変わらず同じ場所でこの場所を守り続けています。そんな石彫大獅子だからこそ、今でもこの場所を訪れる人が後を絶たないのかもしれません。

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すいか親方
国際通りのど真ん中に住んでいるため、ウチナンチュを見かけるよりも、観光客や修学旅行生と出会うことの方がはるかに多い毎日を過ごしている「すいか親方」です。
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