八重瀬町富盛(ともり)地区にある、沖縄最古のシーサー『富盛の石彫大獅子』。守り神として町の至る所に設置されているシーサーの由来でもあり、悲しい戦争の記憶が残るという「富盛のシーサー」を見てきました。
火除けのために置かれた富盛の石彫大獅子
沖縄最古のシーサーがあるのは、八重瀬町富盛地区の小高い丘の上。大きな石を掘り出して作られたといわれているこのシーサーは、地元では「富盛のシーサー」と呼ばれ、昔からこの地域の守り神として信仰の対象とされてきました。なんでもこの富盛のシーサーは、近くにある八重瀬岳から村を守るために建てられたといいます。
このシーサーが建てられる以前の富盛地区は、なぜか火事が頻発していたといいます。不安な日々を過ごすしかなかった村人たちは、ある風水師に相談。すると風水師は、火事の原因が「火山である八重瀬岳にある」といい、火事から村を守るためには、シーサーを八重瀬岳に向けて置けばよいとアドバイスします。そのアドバイスを聞いた村人たちは、風水師に言われた通りにシーサーを置いてみると、不思議なことに火事がぴたりとやんだといいます。
このことは、富盛の石彫大獅子のすぐ脇に設置された石碑にも刻まれています。
なぜかシーサーの口の中にコインが…
富盛のシーサーの口の中を覗いてみると、なぜかコインが…。たしかに、ご利益がありそうな場所にお賽銭を置くというのは、日本人のDNAの中に組み込まれた行動の一つのような気もしますが、そうであったとしても、なぜシーサーの口の中にコインが…?
その理由の真意はわかりませんが、このシーサーが、かつて沖縄戦でこの地域が火の海となった時、弾除けとされていたことが関係しているのかもしれません。
シーサーの体に無数に残る銃弾の跡
富盛のシーサーの体をよく見てみると、何か違和感があることに気が付きます。全体的に非常に丁寧に仕上げられたシーサーなのに、身体のあちらこちらに無数の小さな穴があります。
実はこの穴は、沖縄戦の時に付けられた弾痕です。
第二次世界大戦で、沖縄本土は戦場となりました。日本の敗戦が色濃くなる中、撤退をしながらも最後の抵抗を見せる日本軍。この富盛地区は、撤退する日本軍の陣地がおかれ、まさに戦争の最前線となります。富盛のシーサーの視線の先には、銃口を向けたアメリカ兵の姿があり、富盛のシーサーの背中側には、絶え間なく発射される銃弾を避けるために身をかがめた日本兵の姿がありました。
富盛地区を八重瀬岳の日から守るための火除けとしておかれた富盛のシーサーでしたが、沖縄戦では、日米両軍による猛攻によって火の海となった富盛地区の姿をじっと見続けていたというわけです。
シーサーの口の中のお賽銭の理由が、この歴史と関係しているかどうかはわかりません。でも、この場所を訪れた人が、今も残る無数の弾痕を目にし、戦争の現実をその場で見続けなければいけなかったシーサーの悲しい過去を知った時、自然と平和を願う気持ちになったのではないでしょうか?
富盛のシーサー周辺の景色は、昔とはずいぶん変わったといいます。でも、富盛のシーサーは、今もなおこの地域の守り神として、あたりを見渡せる高台に座り続けています。
近くのバス停にはミニサイズの富盛のシーサーが座っている
富盛のシーサーを見に行くときに目印となるのが、近くのバス停。実はここにも、富盛のシーサーがちょこんと座っています。
もちろんこちらは、本物の「富盛の石彫大獅子」ではないのですが、ミニチュアサイズこのシーサーも、地域の人々の安全をバス停で見守っているようです。
富盛の石彫大獅子- 住所: 〒901-0402 沖縄県島尻郡八重瀬町富盛22
- 見学時間:自由見学(設定なし)
- 駐車場:あり